2015年11月3日火曜日

1. はじめに

   私は、平成14年5月に南沢又ふくし会の副会長に推され、総務の仕事に携わりま
  した。ふくし会の事業の一端として、ひとり暮らしの高齢者の「ふれあい小旅行」を
  実施していました。福島市周辺の名所、史跡を見学して、旅館で昼食会・入浴・休息
  の日帰りの行事でした。「しおり」を作成し、見学者に地域の史跡に関心を持っても
  らい、更に記憶に留めてもらいたいと思い、いろいろ資料を集めました。その折りに
  たびたび「郡長 柴山景綱」の名前を見付けました。

   たとえば、明治12年に保原町に設置された伊達郡役所について、明治16年2月
  1日 、柴山景綱が伊達郡長の命を拝するや、桑折はやや西部に偏在するが、国道線路
  に沿い郡内第一の都会であり、他日鉄道敷設の暁には停車場も置くべき地と予想し、
  郡民の利便性があることを認め、三島県令に具申し県令もこれを受け入れ、伊達郡役
  所を桑折町に新築した。
   また、江戸時代初期に伊達郡西根郷の田畑開発を目ざして、西根堰を開削した古河
  善兵衛、佐藤新右衛門の二人の武士の功績をたたえ、万世の鏡と言うべきであり神社
  に祀るべきとして、神社の創建を進言し官許を得て、豪壮な社殿が建立されたとあり
  ます。

   私は郡長 柴山景綱という明治初期の行政官として、文化財の保護顕彰に尽力した人
  物であったが、あまりに世間に知られていないので、広く世に知らしめたいと思い、
  まず経歴を調べてみることに着手しました。ところが、なかなか資料に出くわしませ
  んでした。郡長と言えば福島県に関係すると思い、福島県歴史資料館を訪れて調査の
  の意向を話したところ、『福島県政治史(上巻)諸根樟一他共著』(復刻版)を見せ
  てくれました。これにより大変なヒントを掴み、福島県立図書館には「柴山景綱事歴」
  (史談会速記録)などの図書があるのがわかりました。

   当時「鬼県令」と呼ばれた三島通庸の影に添うように、柴山景綱の名が出てきます
  が、それもそのはず両者は薩摩生まれで、三島通庸と柴山景綱は同じ年で幼い頃より
  無二の親友であった。そして、景綱の妹 和歌子は三島通庸の夫人で、景綱は三島通庸
  の義兄にあたることがわかりました。福島県内では、三島県令、柴山郡長についての
  評判はあまり良くなかった。先見の明はあったが、その事の進め方の強引さが専制ぶ
  りであったと言われていた。しかし、山形県、栃木県などでは評価が分かれていて、
  三島県令、柴山置賜郡長 両者ともに福島に転任にあたって、山形県に留まるよう住民
  から嘆願されていました。また、三島県令は栃木県では、三島神社まであり神様にな
  っています。

  「史談会速記録」とは次のように記されています。『そもそも君(柴山)と面談する
  と、いつも勤王、王政維新に功があった事だった。もとより疑う事はないが、君と
  志を同じくし、共に王事に忙しく働いた者は数十人、今や多くは重要な職についてい
  る。ひとり君は不幸にも病多くて辺地に療養した。故に世間ではその事歴を知る者は
  まれであり、君も年すでに63歳となった。もし一朝不慮の事があればその功績は、
  あとかたもなく消えてしまう事を親族、朋友がそれを惜しんだ。ある人がこれを聞い
  て、君についてその事実を問いただし、或は散乱した書類をとり集め、これをまとめ
  て冊子にした。これを名付けて「柴山景綱事歴」という』とあります。

   私は、郡長 柴山景綱の足跡をたどり、地区民の反応は如何ばかりであったか、文献
  の調査と現場を見学して検証してみることにしました。
   一番困ったことは、三島県令の顔写真は出回っていますが、福島県内で柴山郡長の顔
  写真や肖像画がありませんでした。どんなお顔か知りたかったのです。福島県立図書館
  でいろいろ調べてもらったら、東京上野の東京芸術大学の隣りにある黒田清輝記念室に
  あるとのことで、後日電話で尋ねたが「ない」との返事でした。とても残念に思い、福
  島市の市史編纂室を訪れましたが、顔写真や肖像画はありませんでした。
   ところが最近思いがけず身内の者から、遠く離れた三重県立美術館に所蔵されている
  との知らせがありました。事情を話したところ美術館のご好意で、柴山景綱さんの肖像
  画のコピーが送られてきました。本当に夢のようで感謝感激で一杯でした。



            三重県立美術館所蔵 『柴山景綱肖像画』




        

2015年11月2日月曜日

2. 伊達郡役所新築の事

    伊達郡は面積が広く、元3区(保原、桑折、川俣)に分割し、その区会所を保原、
   桑折、川俣に設置されていた。明治12年(1879)郡区改正により3区会所が
   合併し、保原は3区の中間にあるとして伊達郡役所は保原に設けられた。もともと
   白河から棚倉へ領地を移した阿部氏の伊達領支配のために置かれた代官陣屋を転用
   したものだった。それほど大きな建物ではないし、洋風が流行していた当時にあっ
   ては具合の良いものではなった。保原は川東(東根郷)にあったので、阿武隈川西
   岸(西根郷)の町村から繰り返し伊達郡を分割して、もう一つの郡をつくることが
   請願されていた。この動きの中心に桑折があった。

    明治16年2月1日、柴山景綱が伊達郡長の命を拝するや、桑折はやや西部に偏
   在するが、国道線路に沿い郡内第一の都会であり、他日鉄道敷設の暁には、停車場
   も置くべき地と予想し、郡民の利便性があることを認め、三島県令に具申し、県令
   もこれを受け入れた。郡役所の設置位置は国の権限だったので、福島県は内務卿に
   伺書を提出し、その手続きを履行した。
    明治16年4月12日、郡役所を桑折町に移すとの令があり、これを郡内に告示
   し、その15日を以て桑折に移転し、法円寺を仮庁舎として事務を開始した。
    郡役所が保原から桑折に移ったのは、郡役所を改築するとき地元住民から巨額の
   寄付金を集めなければならなかったが、保原村では学校を建設したばかりで思うに
   まかせなかった。移転地として名乗りを挙げたのが桑折村であり、再建資金の見通
   しも立ちそうだったので、桑折移転がにわかに現実のものとなった。
  


    柴山自身は陸軍省で兵舎の建築を担当したこともあり、山形県では師範学校の建
   築を担当したこともあるので、建築の全くの素人ではなかった。明治16年5月に
   建築費総額2万5千円をもって庁舎新築工事がはじまった。桑折村からの寄付金お
   よそ2万円は現在の物価に試算すると一億数千万円に相当する巨額であった。同月
   29日より土木工事を着工する。先ず民家を移し、敷地に盛土して突固め、建築の
   地盤を鞏固にして、更に石を周囲に敷き詰め、その崩落を防いだ。

    景綱は着工の日より毎朝第一の鶏声に出て、職工を鼓舞激励し、時には土塊や石
   ころを運搬し人夫と労を分った。建物は地元の大工棟梁 山内幸乃之助・銀作の両氏
   によって建てられた。10月には総二階西洋建、正面に二階建の玄関ポーチを付設し
   屋上に塔屋を高く構えて、当時としては珍しい壮麗な明治様式庁舎が竣工した。これ
   らの建築様式は、三島県令時代の山形県下の明治擬洋風建築と類似しており、三島県
   令およびその側近の柴山郡長らが設計に参画したと考えられている。

    開庁式は10月8日に行われた。式の情景は桑折町史によれば、『福島新聞(明
   治16年10月10日)に掲載された概要は次のようなものであったと記されてい
   る。当日は朝から天気が良くなくて、風雨が激しくなってしまった。正午には県令
   が馬車で到着し、各郡長や県課長に幹部警察官、さらに病院長や学校長も参加した。
   また郡内では郡長や郡役所職員はもとより、県会議員や各連合村戸長に有志者や豪
   農商およそ100余人が列席した。
    式は最初に柴山郡長の祝辞に戸長 氏家喜四郎の祝辞、そして三島県令が「斯る目
   出度開庁式が此の大雨に遭ひたるは一応は不幸な事の様なれども、翻て之を考へれ
   ば此の上もなく目出度日和にて、此の豪雨の水を以てこれまでに垢染みたるところ
   をひと洗いし尽くして、更始一新の美明なる伊達郡を作り出すと思えば悲しみもか
   えって喜びとなるに非ずや」との答辞を述べた。
    当時は桑折村の消防組や警察官が周辺の雑踏を整理し、近郷近村の多くの人々が
   集まった。式が終わると郡役所2階では来場者、階下には議員や戸長等々240〜
   250名が参会して祝宴が開かれた。前庭では素人相撲や撃剣が行われ、菊畑の山
   車を引く女児や盆踊りも披露された。花火が用意されたが大雨のため数本だけで翌
   日に持ち越されたようである。翌日は用意された余興が演じられ、花火もあげられ
   て近在の大勢が郡役所の見学に訪れた。
     柴山郡長は郡役所建築の慰労として、県庁より有栖川宮御筆木盃三組と糸織一疋
   を拝受した。

    郡役所は大正15年(1926)7月1日、郡役所が廃止になるまでの約43年間、
   郡行政の役割を果たしてきた。その後、伊達郡各種団体事務所に利用され、更に県
   の出先機関としての地方事務所が設置されてきたが、昭和44年3月、県行政の改
   革により廃止、昭和49年5月7日に県重要文化財に指定となり、同年7月2日、
   桑折町に移管された。昭和52年6月27日、洋風官衛建築の早期の優品として、
   国重要文化財に指定され、同時に文化庁の指導と援助により半解体保存修理工事を
   行った。総事業費は1億800万円、同年12月1日に着工し、19ヶ月を経て昭
   和54年6月30日滞りなく完成した。明治16年建築当初その威容を示していた
   塔屋は、「烈風の際、自然動揺し永久保存に便ならざるのみならず、往々破損の所
   ありて降雨の節雨漏りし、之を修理するも反って費用を要する…」(県の記録)と
   の理由から、明治20年、解体撤去されていたが、今回の工事によって塔屋が完全
   復元された。

    伊達郡役所の桑折移転について、保原町史①通史によれば、「郡制が実施され、
   郡には郡役所が置かれたが、伊達郡役所は保原に置かれることになった。保原郡役
   所時代で明治12年(1879)に設置された。
    ところが、伊達郡役所の設置場所について、早くも翌13年から桑折方部を中心
   に桑折への移転運動が起こり、ついに同16年(1883)に郡役所の桑折移転が実
   現してしまった。このことが、なぜこのように簡単に実現してしまったのかについ
   ては疑問が残るが、それよりも伊達郡全体を見渡した場合、郡の中央は保原なので
   あるから、それをあえて桑折に移したということは、この後長い郡制時代からその
   後の時期までを通じて、伊達郡行政の上からみて大きな損失であったということが
   できる。多数の郡民の意思を無視して行政を進めた県の権力主義的な暴挙の姿の一
   端が現れていたとみる外はない」と述べられている。

     
            重要文化財 旧伊達郡役所

        ◯ 構 造 形 式      木造、二階建、桟瓦葺
                 中央部一部三階塔屋(擬洋風建築)
        ◯ 建 築 面 積  375.80 ㎡(延面積602.46 ㎡)
        ◯ 敷 地 面 積  3,826.48 ㎡
        ◯ 建築年月日  明治16年10月
        ◯ 指定年月日  昭和52年6月27日 国指定



       参考文献
         1. 「柴山景綱事歴」史談会速記録 
         2. 「桑折町史」2、7
         3. 「保原町史」1 通史
         4. 「ふくしまの西洋造
            ー明治洋風建築の通観ー(ふくしま文庫)草野和夫著
         5.   旧伊達郡役所しおり






2015年11月1日日曜日

3. 信夫郡福島町給水の事


    戊辰の役前の福島は、家中(藩士)と町家(町)と農村(福島町)を合わせても
   600余戸の小都市であった。福島の町の用水は、江戸時代から福島用水の水を引
   いた掘が町通りの中央を流れていて、人も馬もこの水で用を足し、飲料水は掘り抜
   き井戸だけに頼ってきた。泉村の柳清水の水を福島に導水する案は、早くから計画
   調査されたが、多額の工費が予想されて実施されずにきた。明治9年、中野新道の
   開通にともない、福島〜泉村間の交通が便利となった。明治11年、澤木三郎兵衛
   等は本町、中町、大町の有志と共に拠出金を以て旧清水村地内の柳清水の自然水を
   石積みの貯水池をつくり、県令 山吉盛典に具申し、笹木野原の県有林から木材の
   無償払下げが許可されたので工事に着手した。

                   現在の柳清水(清水小学校校庭南西部)   

     延長2,400間(4,364m)を松の箱樋を使用して引水し、かけ樋をもって個々
   の専用井(有料)、または共有井に導水したものである。この工事に6,000人の
   労役と2,000余円を要したという。旧福ビル裏角に大溜桝を設け暗筧を以て各戸
   に分水した。まさに福島簡易水道の起りであった。この水道の水は以後5年間、
   中町、本町、大町の住民にのみ配水された。
 
    明治14年4月25日夕方、柳町の銭湯「みどり湯」付近から出火、折からの
   南風にあおられて、街道筋を北から北東に火が走り、今の新浜公園辺りまで延焼
   し、町の大半を焼きつくした。世にいう「甚平衛火事」である。県庁のおひざ元
   の大火の教訓として、直ちに行われたのが、道路の拡張整備だった。県からの指
   示もあって福島町の有力者だった人々が協議して早くも5月には着工し、町民の
   協力を得て、今日見る福島市街の基礎となる道路などの骨組みができたといわれ
   ている。

    明治16年11月に柴山景綱信夫郡長に着任後、飲料用の水源を四方探し求め
   た。ある日、当地を10数町離れた地に水源があるのを知らせた者があった。景
   綱はこれを実地検分すると、報告のとおり泉よりきれいな水がこんこんと湧き出
   ていた。この水を福島に注げば住民は大変便利であると考えて、部下の技手に測
   量を命じた。技手は測量の結果、「泉より福島の地まで水を引く事は、そんなに
   困難な工事ではない」と復命した。そこで景綱は市民に引水計画を諮ったが、市
   民はその工事の成功を疑った。景綱は自信を持って1,500円を銀行より借りて即
   時に起工した。そして町の一部に給水した。その後、議会を開き議論したが、大
   方の人は一部の成功を見て疑義が氷解し、全会一致を以て賛成し、全部給水する
   ことになった。もし、景綱の考えに対して議会の賛成がなければ、個人で借金を
   返済する決心であった。他日「後年、福島地方に悪疫流行の際、市民の多くが被
   災を免れたのは、この飲水用工事の成功があったおかげだ」と聞いた。(「柴山
   景綱事歴」史談会速記録)

    明治17年に入って、三島県令は柴山郡長に町通りの中央を流れている江戸時
   代以来の用水堀を埋めるよう指示した。福島町会はこれを可決した。各町会は3
   名の世話係をあげ、1,285間(約2,213m)の堀を埋め修繕をした。ここにおいて
   藩政時代からの城下町、宿場町としての町通りの景観は全くその面影をなくした。
   この年、柴山郡長はさらに町民に諮って、延2,540間余(幅5間以下1間半以上)
   の街路を開削並びに修理をし、町の区画の基礎整理がなされた。明治18年には
   柴山郡長の尽力によって、水道は町有となり、箱樋を松のくりぬき木管に改めて
   拡張工事が行われた。
    明治19年4月、福島の一町民 原 太一(福島町役場土木主任)が、県庁移転
   反対建言書を山縣内務大臣に提出したが、その中に「福島町の市中飲水用工事」
   17,000円について、「当該工事は郡長の専断にて起こし、工事半ばで初めて町議
   会に付した」と三島県令、柴山郡長の非を鳴らしたとあるが、柴山郡長の深慮遠
   謀の心の内がわからなかったとしか思われない。


 「福島町給水の事」余録

    柴山景綱郡長の着任早々の「市中飲水用工事」は、原 太一(福島町役場土木
   主任)の指摘しているのと符号する。ただし、水源地がどこかはっきりしない。
   南沢又文書の「明治16年12月 福島町の水道路につき定約」を見ると、
   『先年 南沢又村字柳清水より引水に相成候所、当今に至り水不充分を来し候に付、
   県土木課への願いの上なほまた同村字玉抜清水を以て柳清水増水引入候に付いては、
   ……(以下省略)
      明治16年12月
                        福島町水道掛総代 半沢 喜造
        南沢又村
          御総代  斎藤 長吉 殿 』

    とあり、時期は同じ頃であるので、水源地は玉抜清水と思われる。
     この玉抜清水は古老によれば、松川の伏流水であって水量も多く絶えること
    もなかったと言われている。昭和28年の第三次水源拡張事業によって、清水
    水源ポンプ所が設置され、最近まで使用されていた。平成18年度に国が建設
    した「摺上川ダム」に水源を求めることになった。水源確保の問題は福島市に
    とどまらず、県北地方各町の共通の課題であったため、摺上川のおいしい水は
    1市11町に安定供給される事になり、清水水源ポンプ所は閉鎖された。

 
         
            参考文献
            1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
            2. 「福島市史」4  福島市教育委員会
            3. 「福島市史」10   近代資料1 福島市教育委員会
            4. 「福島市誌」   福島市教育委員会
            5. 「福島市水道六十年史」
            6. 「南沢又文書」  福島市史資料叢書第70輯 
            7. 「いずみの歩み泉の行政百年誌」 泉地区町連合会
            8. 「南沢又の歴史」 鈴木 政雄   
     
  
 




2015年10月31日土曜日

4. 伊達郡西根神社創立の事

  「西根堰」
     伊達郡の西部(阿武隈川の左岸)一帯をもと西根郷と言っていた。半田山を背負い
    水利の便が悪かった。江戸時代初期、上杉氏は関ヶ原合戦の翌、 慶長6年(1601)
    には、会津120万石から米沢30万石に減封となった。しかし、家臣団を離散させ
    ずにそのまま召抱えたので藩内経済を賄う米作、その根源となる水田開発と用水開削
    を急務として奨励した。上杉家が領した西根郷のまとめ役の佐藤新右衛門家忠は、摺
    上川の水を引き、一つの溝渠を開削しようと時の米沢総奉公にその必要を願い出た。
    藩の評議を経て、元和4年3月(1618)標高の低い水路の下堰から開削をはじめた。
    現在の水の取入口は、飯坂温泉の十綱橋の下にある。同年12月、9ヶ月間で飯坂か
    ら湯野、東湯野、桑折町松原、伊達崎をへて阿武隈川に注ぐ約13kmの西根下堰が
    完成し、受益面積659㌶の水田が開けた。村民は大いに役立ち喜んだ。



    
     しかし、佐藤新右衛門は下堰だけでは西根郷の四分の一にすぎず、その利益は全郷村に
    浴さなかったので満足はしていなかった。穴原から新しく用水堰をつくる事を計画した。
    佐藤新右衛門と福島奉行 古河善兵衛は、藩主 上杉定勝に願い出たが、工事の困難性と経
        費の支出の無理を理由に不許可となった。しかしなお、古河善兵衛は佐藤新右衛門からの
    支援もあって再度の申請を行った。このため藩は財政上の援助をしないという条件つきで
    許可をした。
     福島奉行 古河善兵衛を普請奉行とし、佐藤新右衛門を添役として穴原に新堰掘り割りを
    寛永2年より着手した。工事の最大難所は、上堰の取入口で穴原に近い岩山が堅くて、ど
    うしても溝を掘ることが出来ず、岩山を削ってそこに樋をかける方法が用いられた。所に
    よってはトンネルを掘った。
     
     測量にあたっては、上堰開削想定の地に提灯をともし立たせておいて、はるかに信夫山
    から見て高低をはかったとの提灯測量の伝説がある。また、トンネルを掘る工事人夫を励
    ますために毎日の賃金支払いにはけご(竹ざるの胴体がくびれていて、こぶしつくるとや
    っと出る)の中に銭を入れ、これをつかみ取らせるという方法を取り入れたという伝承も
    ある。
     難工事にもかかわらず、用水路が日が当たらない場所を通るときは傾斜を急にして流れ
    を速くし、逆に日当りのよいところは緩やかに流して、水温を高める工夫もされている。
     上堰(全長約30km、受益面積659㌶)は、寛永10年(1633)春3月に竣工した。
    9年かかった難工事は完成した。これにより、全郷旱魃の憂いなく、その恵みを感謝した。





     古河善兵衛は、藩の財政的援助なしに工事を行い、私財を投げうっただけでは都合がつ
    かず、藩の年貢米に手を付け工事費につぎこんだ。年貢米の操作が米沢に察知されないこ
    とを願うが、それは無理なことで、知られたら責めを負って切腹せざるを得ないと一大決
    意をもっていた。
     上堰が完成した後、寛永14年(1637)12月14日、藩の呼び出しに応じて、米
    沢に向かう途中、庭坂「李平」に来た時、馬上で覚悟の切腹をして相果てた。信達地方の
    開拓の大恩人は享年61歳であった。
     また、共にこの堰を開削した佐藤新右衛門は、大鳥城主 佐藤基治18代の孫といわれ、
    寛永14年(1637)9月14日、病にて65歳で没した。桑折町大安寺に世に誇ること
        もなく静かに眠っている。
     景綱は遺跡を見聞し、大いに感激し、両氏のような人は本当に万世の鏡と言うべきであ
    り、神社に祀るべきと各村の戸長に諮り村民に諭させた。村民は喜び浄財を拠出した。

     西根神社御由緒によれば、「明治18年、伊達・信夫郡長 柴山景綱は『両偉人の功績
    誠に大なるものなり、須らく神社を創建し偉霊を祭神と仰ぎ、郷民をして一層敬虔の誠を
    捧ぐるものなり』と進言し、本格的な神社造営が計画された。西根郷33か村4,231人の
    発願にて官許を得、『信達総鎮守・郷社西根神社と尊崇し、以て定時の祭典を行い、偉業
    を不朽に伝ふ』として明治20年1月、お二人の偉霊を地下深く埋め豪壮なる社殿が建立
    された」とある。




     明治18年8月に福島県令宛に提出された発願者総代(岩代国伊達郡桑折村 遠藤卯兵衛
    以下11名の連署)の『西根神社創立願書』によれば、「あたかもちょうど良い機会に前
    郡長 柴山景綱氏(当時 信夫郡長専任となる)が二氏(古河善兵衛、佐藤新右衛門)の事
    跡を参考にするために意見を求められた際に、二氏の当時を振り返って見ると、敬慕の念
    がますます高まり胸に迫ってきて、上・下堰の水を利用する村民にとって年来の望みがこ
    こに達成することができ、幸いはこれにまさるものはありません。よってここに20有余
    村の村民が心をこめて、力を合わせて上・下堰の水源である湯野村に祠を建て、二氏の霊
    を地下に慰め、郷社西根神社として尊崇し、以て永く定時の祭典を挙行し、一つにはその
    偉績を不朽に伝へ、一つにはその美徳に千年にわたって報いるものである。これは我々村
    民の年来の宿願である。神社の維持にかかる経費は上・下堰の村民の出費をこれに当てる。
    村民の心情を察し速やかにお聞きとどけ下されたく、別紙書類を添えてお願い申し上げま     す」とある。


   西根堰余録
   1. 温泉溝渠碑(寛永の碑)



        西根上堰完成の翌年に、清水喜兵衛、佐藤新右衛門、古河多兵衛ら11名の
       連名による古河善兵衛の頌徳碑が建立された。この碑は、もと上堰の取入口の
       穴原橋の側に建てられたものである。佐藤新右衛門は寛永14年9月14日病
       死とされたが、「郡代 古河善兵衛が、新右衛門に毒を盛ったのだ」と、真事し
       やかに囁かれた。西根の農民は新右衛門の死を悲しみ、憤り、古河善兵衛が建
       てた温泉溝渠碑を二つに折って打ち捨ててしまった。現在、西根神社に建っ
       ている石碑は、大正15年、福島中学校(現福島高等学校)堀江繁太郎教諭と湯野
       村の岸倍家氏の懸命の捜索によって、穴原の農家の土留の石垣に使用されて
       いた寛永の碑が発見され、西根神社の境内に移され二つに折られていた碑をつ
       なぎ合わせたのである。碑は、幅約1m、高さ1.75m、厚さ30cmである。

     2. <『いらざる事に候へども申残す』

        昭和59年10月8日の福島民友新聞に―「西根堰開削の功労者」古河善兵
       衛自刃は誤り!? 定説覆す古文書発見ーが大きく発表された。世間に与えた影
       響が大きかったので、同じ民友新聞の文化欄(11月22日付)に桑折町町史
       編さん室主任 田島昇氏が「知られなかった真実」という文章を寄せていた。
        町史編さんのため町内の古文書を集めていた、田島昇編さん室主任らの調査
       で桑折町北町、栗花マサさんが所有していた「口上之覚」という古文書であっ
       た。伊達家と上杉家が慶長5年(1600)10月6日、 信達地方を舞台に戦っ
       た松川の合戦での戦記で、この本文は佐藤新右衛門の手柄を上杉家に提出する
       ために新右衛門の弟 次兵衛が明暦3年(1657)4月23日に書いたものの写
       しである。そのあとに「あとがき」として「いらざる事に候へども…」と隠さ
       れた真実が述べられていた。この古文書は佐藤家出200余年秘蔵され、その
       後、栗花儀兵衛氏に引き継がれたが、栗花氏の遺志が尊重され公表がひかえら
       れてきた。
        
        上堰が完成してまもなく、寛永14年(1637)相馬藩と上杉藩の境界線を
       めぐっていざこざがあった。霊山のあたりの玉野村をめぐる境論(境争い)で
       あった。堰をつくるまでは一緒に苦労して完成させたのに、この境界問題で柔
       軟姿勢の善兵衛と強硬姿勢の新右衛門とが、その政策をめぐって意見が対立し
       た。上杉藩は関ヶ原合戦に際し西軍(豊臣家)についたため、戦後処理で120
       万石から30万石に封され、徳川家の目はいつも光っていて、いま相馬藩と
       争いがあると思われては、藩の存亡にかかわる危機を招きかねなかった。善兵
       衛は慎重を期し、高度の政治判断から譲歩を重ねた。境界部分を両藩入会地と
       する、かなり譲歩した妥協案を取りまとめた。ところが藩内で、「古河善兵衛
       は相馬藩のいいなりになっている。あのように弱腰なのは相馬藩の泉藤右衛門
       と親交が深いからだ。ひょっとすると相馬藩からいくらかもらっているのでは
       ないか」という噂まで立つようになり、「藩内混乱」という別の危機をもたら
       すほどのものになった。善兵衛としては、なんとしても他藩にもれぬよう事を
       処理しなければならなかった。
        「あとがき」によると、寛永14年9月25日、善兵衛は自分の屋敷で評議
       を行ない、境論交渉に常に立ち会った新右衛門にも責任があるとされ、服毒に
       よる死がすすめられた。そして、毒死を拒んだ新右衛門が善兵衛を切り、新右
       衛門もその場で切られた。これが藩内沈静の手段であった。
        このことが徳川家に知られたらお家断絶になりかねない。上杉家の重臣たち
       にとっては、相馬藩との境界線どころの騒ぎではなかった。境界線に関する藩
       内の混乱はおさまったが、それよりも二人の壮絶で悲愴な死は藩にとってあっ
       てはならない出来事で、何としてでも秘密にしなければならなかった。そこで
       「あとがき」によると、内談によって「病死」と処理されたとある。
        新右衛門の弟 次兵衛は、兄の死が単なる病死でもなければ事故でもなく、藩
       に仕える者がとらねばならなかった唯一の選択であったことを子孫にだけ「あ
       とがき」として書き残し、藩への忠節を説いたのである。佐藤家の子孫は、こ
       の老人の戒めを300年にわたって守り抜き、上杉家はもとより古河善兵衛へ
       の敬慕の念をいだき続けるとともに「あとがき」を秘蔵した。





     3.  桑折町史 5 『31 明暦2年4月 口上之覚』の「解説」
        「 口上之覚」は佐藤次兵衛が上杉藩へ提出した佐藤家の功名書きの副本で
        あり、末尾に 佐藤新右衛門の最期についての覚書が付け加えられている。
             佐藤新右衛門は慶長5年の合戦(松川の合戦)で活躍し、そののち伊達郡
        西根郷の惣肝煎として民政につくした。とりわけ、地方の水田を今も潤わせ
        ている西根堰の開削に大きな功績をあげ、奉行であった古河善兵衛とともに
        西根神社に祀られた。このため、本号末尾の古河と新右衛門の最期は神社に
        祀られた二人のものとしてふさわしくないように判断され、長く所蔵者によ
        って秘蔵された。「桑折町史5」に収録できたのは所蔵者(桑折町北町 栗花
        マキ氏)のご好意と研究の進展にともなって、本号に示された諸事実が二人
        の名誉を傷つけるものでないことが確認できたからである。  






     4. 「西根堰」選奨土木遺産に認定 福島民報新聞 平成22年10月19
         土木構造の文化的価値を再評価し、保存や活用を推進する社団法人土木学
        会の「選奨土木遺産」に県北地方を流れる農業用水路「西根堰」が認定され
        た。西根堰は完成から約390年たった今も「現役」であり、流域の随所で
        とうとうと流れるかんがい用水を見ることができ、豊かな農地を育んでいる。
         西根堰は福島市飯坂町湯野の摺上川から取水し、桑折町に至る下堰(12km)
        と、桑折町、国見町を経て伊達市梁川町に至る上堰(26km)からなるかん
        い用水路である。特に上堰は硬い岩を削り、横穴を開け、わずかなこう配で造
        られてるなど高い技術が評価された。近世初頭の農業技術を示し、小中学生
        の学習や地域おこしなどに活用される貴重な土木施設群とされた。                  
                

           参考文献
            1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
            2. 「福島市史」4  近代
            3. 「西根神社略誌」 西根神社
            4. 「西根堰物語」  稲村彦衛著
            5. 『「ゆの村」祖先の足跡をさがして』 秋山政一著
            6. 「上杉家臣 古河善兵衛のこと」     太田隆夫著
            7. 「半沢光夫の福島発の歴史地図」   半沢光夫著
            8.   福島民友新聞  昭和59年10月8日,11月22日
            9. 「桑折町史」 5,7
           10. 「霊山町史」 2
           11.   福島民報新聞  平成22年10月19日  
 

 




 

2015年10月30日金曜日

5. 「石那坂死戦将士碑」 建碑の事



   佐藤基治は、藤原秀衡、泰衡に使えた信夫の庄司であった。大鳥城を上飯坂村に築き、
  ここに居城した。佐藤家が信夫郡にやってきたのは、基治から五代前の佐藤師清が最初
  だった。源頼朝の旗揚げのときから60年前の保安元年のことだった。以来、佐藤家は
  徐々に力を蓄えてきた。特に、基治の代に至って姻戚関係を強くした。藤原秀衡のいと
  こにあたる乙和子を妻にし、そこにできた娘を秀衡の三男 忠衡に嫁にやった。こうして
  藤原秀衡と佐藤基治は一心同体ともいえる主従関係になったという。

   頼朝に無断で朝廷から位官を受けた義経が、奥州に落ちのびると藤原秀衡、泰衡はこ
  れをかくまった。頼朝は秀衡が亡くなると泰衡に、義経の身柄の引き渡しを求めた。泰
  衡は拒否するが、度重なる要求に屈して、衣川館に義経を急襲して殺害した。
   頼朝は、奥州を平定するために、28万余の兵を送り、三方面より平泉を挟み撃ちす
  る。佐藤基治は泰衡の将として叔父 河辺太郎高経や伊賀良目七郎高重らとともに一門の
  兵を率いて、石那坂(福島市平石)に砦を築き、阿武隈川の水を引き柵を作り、石弓を
  張り討手を待った。

   基治は七十余歳の老いの身でありながら、尚古武士の風格を失わず、一家総討死の覚
  悟を決め、砦の大将として東に西にかけめぐり、よく味方に下知して一歩もここを引か
  ず戦った。頼朝軍はどうしても前に進むことができないので困ってしまったが、やがて
  中央突破を無理とあきらめ、一部を西方に回すことになり、後に伊達氏を名乗る常陸入
  道念西(中村朝宗)が子息 常陸冠者 為宗・同次郎為重・同三郎資綱・同四郎為家等、
  ひそかに甲冑を秣の中に隠して、その背後、伊達郡澤原(現在の佐原)から奇襲するこ
  とにより、ようやく突破された。死闘は一日中続いた。頼朝軍の背後からの猛攻を防ぎ
  得ず、基治は麾下の信夫十八将ともども石那坂に討死の悲運を背負わなければならなか
  った。



   この合戦は「吾妻鏡」の8月8日の条に「基治以下18人の首を阿津賀志山上の経ヶ
  岡(国見町)にさらした」と記されている。
   この合戦で頼朝軍の中村朝宗は、恩賞として伊達郡を所領とし、姓を伊達と改め、奥
  州の覇者としての第一歩を踏み出すことになった。

   基治が戦死してから、基治の妻の乙和子と長男継信の妻 若桜、次男忠信の妻 楓とそ
  の子 義忠らが大鳥城の本丸を守っていたが、8月13日の瀬上の砦が破られると間も
  なく大鳥城も落城した。この地の伝説では、8月13日は名月の夜であったという。
   この戦いで戦死者の血潮で裏の赤川が赤色に変わり、それ以来、赤川の名がついた
  と伝えられている。

   基治が石那坂で戦死したのは、文治5年8月8日であるが、その後、親戚が遺体を望
  んで、これを信夫郡佐場野村医王寺に埋葬した。墓碑は現在もある。
   柴山景綱は岩代羽前に居住するある日、上飯坂村に行き、大鳥城趾に登った。西北に
  山をめぐらし、南河原を控えて、東霊山に対して固められた要害の地であった。空濠は
  今も存在し、当時の攻守の戦いの有様が目に浮かぶ。山を下り、庄司 基治の古墳を医王
  寺に弔い、当時の事を寺僧及び地域の人々に聞いた。「基治は大鳥城から出陣し、石那
  坂で戦う。利あらずしてそこで戦死した。そして遺骸は本寺に帰葬した」と皆は言った。

   その碑を見るに今も存在し、庄司 基治夫妻ならびに継信、忠信親子4人の碑を拝した。
  なかでも庄司 基治の碑をさわって見ると、墓石の角は丸く滑らかで、字体は本当はどう
  いう形か不明である。何故かと問うと「熱病を患っている者が角を削り、これを飲むと
  治ると伝えられてきた。そのため角が欠損した」と答えた。庄司 基治は当時善政をしき、
  人望があり後世にも敬愛されていた。

   景綱は、石那坂に佐藤庄司の戦死の場所を見出すため、明治18年1月29日に郡役
  人2〜3人を伴い、その古戦場を弔った。山道は羊腸のように曲がりくねり、険しい山
  道を登った。基治主従が勇敢に奮戦の状況を追想し、憂い嘆き涙がこぼれ、立ち去るに
  忍びず、東西を歩きまわったがわからなかった。夕陽のさす頃に草木の繁茂した樹林の
  中に墳墓に似た物が5〜6あるのを認めた。これを地区民に尋ねた。住民は昔よりここ
  にあったが、これが基治主従の18人の受難の遺骨を埋めた墓とは知らなかった。

   郡役人 大平鋤雲に2月1日より発掘させた。鋤雲帰って「土を掘って若干左右石を積
  み、長さ6尺、幅3尺底石を敷き、ふたは磨石をかぶせ、中に大小の古剣二振り及び錆
  びた鉄片が幾つか出た。朽ちてはいるが形がわかり、その昔を懐かしむことができる。
  これは基治主従が腰に下げたものであり、遺骨とともに埋めた所であろう」と報告した。
 
   景綱は基治父子の忠烈にますます深く感じて、諸書を参考にして「佐藤家伝」を著し、
  古剣及び錆びた鉄片の形を図にかいてこれを挿入した。郡吏、戸長に諮り、墓をもとの
  如くに埋め、上に碑を建立し、これを不朽に知らしめ伝えるため、 自ら現地に赴き、そ
  の状況を視察した。時に明治18年3月であった。そして佐藤主従の名誉を伝え、かつ
  村民の幸福を増進することを祈り、古剣等を当地の村社に納め、長く貴重な宝となした。
  



「石那坂死戦将士碑」への道順
     碑のある場所は、福島市平石字上原にある。
    一般市道南町浅川線(旧4号線)の伏拝のJR
    南福島駅に入る交差点を右折する。少し直進
    すると、一つ目の信号機のない交差点があり
    右側角に御食事処「鉢の木」の料理店がある。
    この交差点を左折して道に沿って進む。濁川
    の橋を渡り、森永乳業の工場脇を通り、さら
    に直進し、JR東北本線( 上り線 )のガード
    下を通り抜け左折すると三叉路に出る。右折
    し100m位行くと消防団のポンプ置場がある。
    ここで道が3本に分かれているが、真ん中の
    道の入口に「石那坂死戦将士碑登口」の標識
    がある。車から降りて、この小道のゆるい坂
    を登ると小道が二手に分かれるが、左手は農
    道で車の轍跡がある。
     送電線の鉄塔は右手のけもの道のような方
    登っていくと、左手に桜並木があり送電線の
    鉄塔の下に出る。鉄塔番号「蓬福線13(東北
    電力)」の標識がある。石碑は鉄塔の裏側にあ
    る。季節にもよるが、念のため熊よけの鈴、
    携帯ラジオ等を持参したほうがよい。


こちらを「蓬福線13」を目指し、右方向へ進みます
鉄塔の南西の脚から南方へ入っていきます









鉄塔「蓬福線13」


季節によっては樹木が生い茂り、わかりにくいです





 明治18年(1885)9月に当時の信夫郡長 柴山景綱が石那坂の戦で戦死した将兵を弔って
この地に碑を建てた。(碑高192cm)
 この碑は、JR東北本線(上り線)の平石トンネルの上の山にある。



後方にもうひとつ碑があります 


















「石那坂の合戦余録」
   1. 「福島市史」4 近代Ⅰ P.702 柴山郡長の史跡顕彰
      柴山はこれこそ文治5年8月8日の石那坂合戦によって戦死した佐藤庄司以下18人の
     墓と断じ、画家 伊那川秋嶽に出土品、墳址の実測図をまた岸村鵬山に『18士墳墓ノ図』
     を描かせ、また白河の佐藤健太郎に『佐藤庄司古刀記』を書かせて出土品を保存させた。
      後に「石那坂古戦場碑」を建立した。会津の人 佐治為秀が『佐藤庄司家伝』を著した。
     秋の実測図・出土品の現物を見ると、古墳時代末期8世紀初頭の横穴式石室をもった古
     墳であって、決して文治の役のものではない。考古学の研究が進んでいなかった時代でも
     あり、柴山らの史眼もこの程度であった。 

   2. 「吾妻鏡」 文治5年10月2日の条

      「囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等厚免を蒙りて各々本所に帰ると云々」とある。
      佐藤基治は石那坂の戦いで戦死したのではなく、捕らえられたが後に許されて本所飯坂
      に帰された。

   3. 「石那坂合戦の時と所」 すぎのめ第24号 福島大学名誉教授 小林清治

       石那坂は明らかに北に下る坂であるから、北に対する守備には強いが、南からの敵を
      防衛するには最も不利な地形である。すなわち、本来の防禦線は逆に南に傾斜した地形
      の地区でなければならない。近辺においてそのような適地は、関谷(関屋)福島大学
      キャンパス南辺、さらに県立福島医大キャンパス南辺にわたる浅川の流れの北岸にある
      段丘上にのみ見出すことができる。この地区こそが佐藤庄司軍の防禦線であり、生命線
      であったとみなされる。
       佐藤庄司軍の防禦線を浅川北岸段丘と考えてこそ、為宗兄弟の奇襲の意義は明確とな
      るのである。石那坂合戦とは、搦手で行われた奇襲攻撃で勝敗が決した結果において、
      呼ばれるに至った名称であったと考える。為宗兄弟はおそらく松川あたりから西へ水原
      あたりを経由し、土湯方面を迂回して佐原方面に至り、鳥渡りあるいは小川をへて佐藤
      庄司軍の後陣・搦手を急襲したのであろう。
       因みに「平石村誌」(1879)には、「佐藤基治、源頼朝の泰衡を討つ軍を扼え戦死
      せし処は今の吉治下町畑の地と云伝ふ」とある。地籍図によれば「吉治下」、「町
      端」は隣接し、その東辺を奥大道が通ったものと推測される。
       

      参考文献
       1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
       2. 「全訳吾妻鏡」 2 新人物往来社
       3. 「福島市史」 1,4巻
       4. 「大鳥城記」 菅野円蔵編 飯坂町史跡保存会
       5. 「すぎのめ」 第24,28号 福島市杉妻地区史跡保存会
       6. 「ふくしま散歩」 小林金次郎著 ふくしま郷土文化研究会
         7.   「福島県合戦(福島、伊達、二本松、安達編)」 いき出版    






2015年10月29日木曜日

6. 信夫文知摺石発掘の事


    文知摺とは平安時代頃から珍重され、狩衣などに使われた織物である。草木の紫
   や藍色で絹に乱れ模様を付けたもので、なかでも信夫郡の文知摺は有名であった。
   文知摺の乱れ模様は、心の乱れにかけて和歌に詠まれるようになった。
    この地には河原左大臣 源融と虎女の伝説が残っている。陸奥国の按察使として赴
   任する途中、信夫に寄った源融は村長の娘 虎女と恋をし、しばらく逗留するが、や
   がて都に呼び戻されてしまう。残された虎女は、融が恋しく、文知摺石を麦草で磨
   いて鏡のようにし、融の面影を映し出したが、衰弱して亡くなったという伝説であ
   る。しかし、この伝説が若い恋人たちを刺激して、麦畑を荒らす結果を招いた。
   「古今和歌集」に源融の「みちのくの 忍もちずり 誰ゆえに みだれそめにし
   われならなくに」という歌が収められている。

    また、松尾芭蕉が古歌に詠まれた有名な、しのぶもじ摺りの石を見るために、信
   夫の里(福島市)に出かけた。宿場から遠く離れた山陰の小さな村里に、その石は
   半分以上も土に埋まっていた。村の子どもたちがやってきて、「昔、この石は山の
   上にあったのですが、通行人が畑の麦葉を取り荒らしては、この石の表面に摺りつ
   けて試したりするのを村人が嫌って、石を谷に突き落としたのですが石の面は下に
   なったのです」と教えてくれた。そんなこともあるのだろうかと思わず苦笑する。


    
    早苗とる 手もとや昔 しのぶずり
    田植する早乙女たちのすばやい手つきを見ていると、しのぶ摺をした手つきがし
   のばれてゆかしいの意。

   ◇ 文知摺石を保護した堀田正虎氏と信夫郡長 柴山景綱
    文知摺石(高さ3m、幅2m余)一名「鏡石」とも言われ、もと山上にあったが、
   里人がこれを下に突き落としたが、石の面は下になってしまった。それゆえ麦の葉
   で石を摺ることは途絶えてしまった。
    石に因む歌や伝説が今も鮮やかに残ったのは、伝説的価値があったにしても、こ
   の草深い山口にあって手入れもしなかったから、或は埋もれてしまったかも知れな
   い。貞亨3年(1686)から12年間福島の地に10万石の領主として堀田氏が来任し
   たことは、文知摺にとってはまことに幸いであった。弟 正虎は領内にある名勝旧跡
   などをよく保護した人で、信夫文知摺をはじめ大平寺の「稚児塚」、信夫山の「羽
   黒神社の鳥居」、「薬王寺の祈願所」などについても特に力を注いでいる。文知摺
   石の地中に埋没しているのを嘆き、石の全体を現そうとして工事を始めたが、3日
   後に担当役人が職を離れることになり、ついに目的を果たす事ができなかった。

   ◇ 信夫郡長 柴山景綱の文知摺石の発掘
    明治になって、政官正院の歴史課・地誌課の下部として、県の修史・地誌編纂事業
   がすすむと、これに呼応して史跡の保存顕彰運動が起こった。柴山が信夫郡長に着任
   すると、人が来て盛んに文知摺の事を説いた。そこで虚実を調べて見ようと、文知摺
   を訪れて池中に在る文知摺石を見た。石は無惨にも放置されていた。水面から出てい
   る高さ尺余(0.3m余)、縦五尺(1.7m)、横三尺(1m)の苔石であった。石の種類大小
   などは知ることは出来なかった。ただし、その状況は恰も野猪が水にうつぶせになっ
   ているのに似ていた。明治18年の春、信夫郡長 柴山景綱は村人に諭して言った。
   「現今各地に新たに公園を設け或いは旧跡を補修す。文知摺の名石を埋没したままに
   しておくのは勿体ない」として、5月5日より文知摺石の掘り起こしにかかった。戸長
   高橋繁久総監督として近村有志者も来り、掘り起こし作業を始めた。これを助ける者
   は千余人(瀬上戸長役場組合、岡部、岡島、本内、丸子、鎌田、瀬上、宮代、下飯坂、
   沖髙、矢野目の10か村)となった。景綱は毎日午後3時には退庁し文知摺の地に行き、
   土砂の運搬をして工事を助けた。ある時には休暇に際し郡吏、町村吏も終日出て助勢
   したこともあった。池の水を止め泥さらいをして、文知摺石の周辺を深さ10尺ばかり
   掘る。これによって再び700年前の文知摺石の全体を見る事ができた。高さ2.0m、長
   さ4.0m、幅3.2mの巨大な石であった。地表に現れている部分だけでも、重量70トン
   と推定された。『奥の細道』に「谷へつき落とせば石の面下さまに伏したり」とある
   のを掘り起こそうとする工事でもあったが、その面を出すことはできなかった。
    掘り出した石を細かに見ると、花崗岩の全面に石英脈がはさみ込まれて、その走行
   の複雑な美しさは見事なものであった。しのぶ草を束ねて、絹に石摺りすると、味わ
   いのある美しい模様ができた。景綱は「史伝口碑は私を欺かなかった」と述べて伝承
   の通り文知摺石はこれであると言い切った。
    四方に石を積み重ねて壁となし崩れるのを防いだ。明治18年8月20日を以て工事が
   完成した。
    また、これらと平行して石紋を縮緬羽二重に摺り「信夫文知摺石記」と共に霊山神
   社宮司 北畠通城を通じ、三陛下その他 三条実美、島津久光、島津忠義に献上した。
    また、文知摺石の地は、官道より離れていて桑園麦畑などで道が狭いので、道路の
   拡幅改修工事に着手して、同年10月21日竣工式を挙げた。 


   信夫文知摺石の発掘余録

   1. 柴山郡長顕彰碑
      「明治18年(1885)信夫郡長 柴山景綱が文知摺石を発掘し、現在の状態にし
     たことを顕彰し、明治37年3月に建立した。撰文は、旧福島藩督兼侍講・ 高橋
     忍南、書は安洞院14世瓦獄玄彰和尚による」
                                 信夫文知摺保勝会



   2. 原 太一の建言書
      福島の一市民 原 太一(福島町役場土木主任)が山縣内務大臣に提出した「県庁
     移転反対建言書」がある。激動する政局の中で、郡の町村民がどのような生活をし、
     どのよう負担を強いられたかを簡潔に書きあげている。とくに文知摺石について
     は「是は客歳(5月より6月に至)農蚕繁忙の季節にて、最寄り村々は大難渋仕り
     候(人夫8,000人余)」と述べている。(福島市史 4 P.247)
 




      参考文献
       1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
       2. 「福島市史」 4 近代  (福島市教育委員会)
       3. 「福島市の文化財調査報告書 第3集」(福島市教育委員会)
       4. 「奥の細道紀行300年記念『しのぶもぢずり』をめぐって」関係資料
          (福島市教育委員会)
       5. 「ふくしま散歩」 小林金次郎著
       6. 「おくのほそ道」 (角川ソフィア文庫)    



  

  
    

2015年10月28日水曜日

7. 信夫郡庭坂村温泉場の開設の事


    庭坂宿は、李平宿、板谷宿を経て米沢城下に達する、米沢街道の交通の要地であった。
   住民の多くは荷物の運搬を業として生計を立てていたが、栗子トンネルを通る「万世大路」
   が明治14年10月(1881)に開通すると、人や荷物の行き来がにわかに減り住民の多くは
   失業し、村は衰頽したが、これを救済する良策もなく困っていた。同17年、信夫郡長 柴
   山景綱は高湯の温泉を庭坂に引湯し、湯町を開いて繁栄をとりもどそうとした。
    「柴山景綱事歴」(史談会速記録)を要約すれば、部下が言うには庭坂地内に高湯とい
   うすこぶる効き目のある温泉があるが、高く険しい山間にあるので入浴客は行き帰りに苦
   労した。更に冬は積雪が道路を埋めて通行ができなく、人々は残念に思っていると話を聞
   いた。当時、柴山景綱は福島市街の道路修理、郡役所の増築、霊山神社の社格の請願、伊
   達郡の蚕業の改良等幾多の仕事が一時に集まり、他の事を顧みることができないほど忙し
   かった。
    その後、景綱は痔を患い医者に診察してもらい治療をしたが、なかなか治らず、席に座るこ
   とも椅子によりかかることもできず、ただ横たわっている以外よい方法がなかった。「高湯
   の温泉に入浴してみたら」と人に勧められて、4〜5日湯治をしたが少しもよくならず、医者
   を招くにもあまりにも遠方でどうしようもなく、連続入浴すること15日ばかり経った頃、痛
   みも去り、腫れもなくなり温泉の効果があったことを知った。
    この温泉の湯を庭坂に引き、浴場を開いたら病者も容易に温泉に浴し、老人も子供も相携
   えて来浴が便利になるとして、宿の主人に「浴場第一の場所を提供するから1〜2元湯を分
   与してほしい」と願ったが、主人はそれを聞き入れなかった。景綱は福島に帰り郡書記の徳
   江末晴に相談した。末晴は直ちに高湯に赴き、各方面に分湯を説得した。湯元と官山(官有
   地)より出る湯があり、其の2〜3を分湯することを承諾させた。

    この間の事情について、「高湯温泉400年史」には「三島県令は土木官吏といわれるだけ
   あってお湯の権利に精通していました。高湯温泉の西方の隣接地にある湯花沢温泉は温泉が
   湧き出ている場所が7ヶ所あります。このうち温度も高く、湧き出る量も多いのは三番温泉、   五番温泉、六番温泉で、地租改正にあたって法的な手続きがとられていなかったので、運悪
   く官有地のままでした。そこに目をつけた三島は、郡書記の徳江末晴の名義に払い下げたの
   です。そして、温度が高い高湯温泉の瀧の湯に、湯花沢温泉の三番温泉を混入し、それを引
   湯したのです。法律的には抵抗のしようがありませんでした。しかたなく、涙を呑んで三島
   の意向に添うことになったのです」と述べられている。

    これにより村民にはたらきかけ、その賛成を得てついに資金2万円有余円を醵出し、明治
   18年5月7日に起工することになった。数日間山間に在り、上に登り下に走り大変苦労をし
   て吾妻岳の半ばの腹原湯より北麓の沢地に沿い、ようやく木桶を敷設した。庭坂宿に近付く
   と天戸川を横断するのに百間余の筧を架した。ここから数カ所の浴場に分派した。一つは、
   10畳、4畳の浴槽2ヶ所、滝3本にそそぐ。一つは、8畳、4畳の浴槽、滝4本にそそぐ。その
   他、浴槽数個を設けた。
    総延長8.5km、このうち5.8kmは、長さ1.8m、縦0.21mの生松の彫抜き樋を用い、それ
   以外は土管を使用した。この工事に要した福島町・郡の費用は25,000円余、うち8,000円
   は庭坂村、17,000円は郡長・戸長の負担といわれる。
  
    福島市史別巻Ⅵ「福島の町と村」(P.567)によれば、割石付近の旧水路筋に、北西から
   南東へ長さ500m、 幅109m、中央に18mほどの街路をはさんで、計72区画の宅地を設定
   した。うち、一区画は北端の共同館用地で5,840㎡。各区画は一定していないが間口11m、
   面積500㎡のものが多い。西側に三つの共同浴場、南部に貸座敷営業地を配置したとある。

    大通りの両側に三尺ばかりの溝渠を穿ち下水を通す。名付けて柴山街と言った。新たに
   共同館(内湯あり、広さ28畳ばかり)、北川屋、米沢屋、廣淋樓、瀧ノ湯、丸本屋、錦屋、
   坂田屋、玉屋、庭田屋、熱田等を開き、浴室を設け加ふるに青樓、押野樓あり、また旧来の
   民舎あり寺院(清水寺)があり、10月になって工事は完了する。

    10月22日、湯町の共同館で引湯と庭坂新道との開通を祝う式典が行われた。県官のほか
   黒田清隆内閣顧問、前県令の三島通庸、奈良原繁日本鉄道社長、折口山形県令らも臨席して
   盛大に催された。
    高湯温泉の湯は地中より来て数カ所の浴槽に湧き、温泉の評判が広く世間に言い伝わり、
   近郷近在はもとより遠来の客でにぎわった。人や物流が日に日に増して、昔のような繁栄を
   取り戻し、明治21年には庭坂駐在所も新築された。
    しかし、土管の湯樋はまもなく破損して、硫黄分を含んだ温泉の漏水により田畑の農作物
   に被害を及ぼした。補修も大工事で湯町の宅地や建物を抵当に数カ所の銀行から融資を受け
   た。いかに庭坂村が助成しても資金に困難をきたした。補修がおぼつかなくてお湯が漏れて
   飲料水にまで混入したり、引湯による温度の低下は温泉の効能を弱めることになり、入浴客
   も足が遠のくようになった。湯町は明治31年に引湯を完全に中止閉鎖され、以後は衰退の
   一途をたどった。

      現在の湯町の町並み
         昔の歓楽街の面影はまったく無くなっている。まっすぐな大通り
        が一本あり、両側は住宅が並んでいる。その突き当たりに共同館が
        あった所と言われている。
           以前には、庭坂の繁栄の“証人”の芝居小屋、映画館だった「天戸座」
        の今にも崩れ落ちそうな大きな木造家屋があった。今は防災、景観の
        ためか撤去され更地になっている。
 





     湯桶渡し跡
        清水原地内には、明治18年5月より同31年まで、8.5kmを引湯した
       ときの、天戸川を渡す木樋支えの石積みの一部が左岸の庭坂発電所の
       近くに残っている。
        「垣に残るはただ葛」でよく探さないとわからない。また、右岸(上
       古屋地内)の林の中には土盛りが残っている。これは湯町引湯を証明
       する唯一の貴重な遺跡である。




          なお、右岸の吾妻林道脇に、吾妻地区郷土史談会が建てた「引湯懸樋
       (もちこし)台石積」の標柱がある。標柱の右側面には「明治18年、時
       の信夫郡長 柴山景綱は、高湯温泉より信夫郡庭坂村湯町に引湯を企て、
       村民を勧起し、同年5月27日起工、同年10月25日竣工した。その経費は
       2万円余であったと言われている」と記されている。
        高湯温泉全図には、右岸にも石積みが描かれているが残っていない。右
       岸にある石垣は吾妻林道のものである。


      現存する木樋
         高湯温泉のドライブイン清水屋に当時使用された木樋が保存されている。





   


    庭坂宿と湯町の余録

     『庭坂宿と湯町の昔と今』(福島市文化財ボランティア養成講座4班成果報告)
      山形県令であった三島通庸は、明治15年12月25日兼任 福島県令として着任し、
     県内の郡長とともに信夫郡長 山田民弥を罷免し、代わりに義兄の柴山景綱を郡長
     に登用して三島県令の片腕として辣腕を奮わせた。
      翌年、福島・栃木両県の県令となって君臨する三島県令に、郡長 柴山景綱は庭
     坂に繁栄をもたらす施策だとして湯町の開設を要請した。(一説では柴山郡長は
     痔疾があり、高湯の湯治に効力があることを知って、権力にものをいわせて引湯
     を計画し、村民を総動員して着工完成させたものとも言われている)
      
      三島県令は明治17年11月21日に内務省三等出仕(土木局長)に任命されるが、
     その2日前に置き土産のごとく湯町開設の許可を出した。
      ただちに工事は着手されたが、計画的に造成される湯町の地は、傾斜した山林
     を切り開き、長さ500m・幅18mの道路を中央に配し、湯町北端正面に共同館、
     高湯から引湯した3ヶ所の共同浴場、貸座敷営業地など72区画が計画され、そこ
     に県令・郡長の別荘の計画もあったと言われる。高湯からの引湯工事は延長8.5
     kmで、このうち5.8kmは、径7寸の松の彫抜き樋を繋いで用い、他は土管を使用
     した。湯町の建設工事は郡営工事として行われ、これに要した費用は8,000円が
     村負担、郡長・戸長が17,000円の負担で、計25,000円余であったとしている。



       参考文献
         1. 「柴山景綱事歴」   史談会速記録
         2. 「福島市史」 4   福島市教育委員会
         3. 「福島市史」 別巻6 福島市教育委員会
         4. 「高湯温泉400年史」 高湯温泉観光協会
         5. 「福島市文化財ボランティア養成講座(4班成果報告)」 


 

      
     
     

2015年10月27日火曜日

8. 「阿津賀志山古戦将士の碑」建碑の事


    源頼朝は宿敵の平家一門を西海の壇ノ浦に滅ぼし、武家の政権である鎌倉幕府を
   樹立した。この平家追討に大功をあげた弟の源義経は、兄の頼朝に疎まれ謀反人と
   して追捕を受ける身となった。頼朝は謀反人を口実に、奥羽二州の平定にあたった。
    文治5年(1189)7月17日、兵を三方面軍に分けられ、その勢力30万といわ
   れた。東山道を総大将の頼朝が指揮し、東海道を千葉常胤と八田知家、北陸道を比
   企能員と宇佐美実政がそれぞれ指揮し、北上を開始した。

    頼朝は先陣を畠山次郎重忠に申しつけ、7月19日に本隊が出発した。白河関に
   着いたのは、その月の29日、それから阿津賀志山の麓、国見駅に着いたのは8月
   7日であった。白河から国見までは100余km、この間6日を要していたが、途中
   で奥州軍の抵抗がなく、一兵も損ぜず信達平野に進出した。

 頼朝の遠征軍を迎え撃つ奥州軍には、
強固な陣地を構築する準備期間があった。
阿津賀志山の標高は289mと低いが、
福島盆地が前方に展望でき、みちのくの
奥へ旅する人は必ずこの地を通らなけれ
ばならなかったように、現在もまたこの
地は交通の要衝であり、東北本線、東北
新幹線、国道4号線、東北自動車道がす
べて束になって裾を通っている。
背後には宮城野があり軍事的にはこの上
ない重要拠点であった。       


    藤原勢は早くからここに目をつけ、阿津賀志山の中腹から西大枝の石田へ続く約3.2
   kmの薬研堀状の阿津賀志山防塁を構築した。藤原泰衡の異母兄にあたる藤原国衡を大
   将に、2万余騎が布陣した。藤原泰衡は仙台榴ヶ岡のあたり国分原の鞭楯に本陣を構え
   阿津賀志山は前進基地として要塞を構築した。信達盆地の南端である石那坂には砦を構
   えて第一の防御線とした。阿津賀志山の背後である刈田郡の白石付近にも城柵を造り、
   第三の城砦とし、さらに名取・広瀬の両河に大縄を張り、太平洋沿いに北上する東海道
   軍をくいとめる作戦を立て、ほかに出羽道より侵入する北陸軍に対する警備もたてた。
         本営の後方の栗原・三迫・黒岩口一帯に数千の兵を配置して予備軍とした。

    頼朝は先ず畠山重忠を召して策をさずけた。重忠は鎌倉進発に際し、予め予想される
   要塞攻撃のため80人の疋夫と、鋤、鍬を持参させた30人に命じ夜陰に乗じて土石を
   運び、奥州陣の前にある大堀を埋めさせ突破口を造らせた。翌日8月8日午前6時、頼
   朝は畠山次郎重忠をはじめ、小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光
   等に命じて、昨夜造った突破口から金剛別当李綱が率いる数千騎の陣と矢合わせを行い、
   各軍波状攻撃を加え戦闘は午前10時で終わった。いわば小手調べであった。頼朝軍は
   意外に強固な奥州軍の陣営に驚いて兵を引いたのであった。
    8月9日の日中は両軍対峙して互いに隙をうかがった。夜になって軍議を催し、明朝
   払暁攻撃を命じた。


   8月10日、頼朝は夜明けを待って陣所の藤田宿をあとにし、大軍を率いて阿津賀志山
  を越え、阿津賀志楯の大木戸に攻め寄せ、総力をあげて猛攻撃を加えたが、奥州軍の守り
  は固く容易に敗北しそうになかった。前夜来、小山朝光の率いる宇都宮友綱の郎従記権守、
  波賀次郎大夫らの7名は、地元の安藤次を道案内として密かに藤田宿より出て出羽道を北
  に進み、鳥取越(小坂峠)から白石川沿いに進み、刈田郡小原山の間道を迂回して貝田峠
  に至った。姥神川沿いの険阻な坂道を下り、大木戸の背後にある国衡本営の後陣の山によ
  じ登り、時の声をあげ矢を放った。国衡の陣営は搦手よりの敵襲とあって大混乱に陥った。
  国衡の本陣は浮き足立ち、算を乱して敗走した。大木戸口で敵勢と激戦中の軍兵も後方で
  起きた本営の敗退が伝わると戦意を喪失し、多くの兵士達は逃亡や投降して、奥州軍は瓦
  解してしまった。頼朝軍は追撃戦に移り、出羽国に逃れようとする国衡に追いつき、畠山
  重忠の門客 大串次郎の手にかかり、あえない最期を遂げた。

   総大将藤原泰衡は慌てふためき、奥の方に逃亡してしまった。頼朝は8月22日の夕刻、
  平泉に到着した。泰衡は平泉の館に火を放って姿をくらましたが、9月3日、出羽国肥内
  郡で郎従 河田次郎の手で殺された。9月6日、河田次郎が泰衡の首を持参した。これを実
  検させた頼朝は、主人を討った罪を責めて次郎を斬罪に処した。奥州合戦は、平泉の藤原
  氏が滅びたというだけでなく、日本の歴史が古代から中世に転換する大きな節目となった。

   明治16年2月1日に柴山景綱は伊達郡長に任ぜられた。景綱は赴任するや度々阿津賀
  志山の激戦地を訪れたが、感ずるところがあって後に信夫郡書記 徳江末晴、藤田村戸長
  成沢英和、大木戸村の豪農 半沢与一郎等と協議して、阿津賀志山麓の合戦ゆかりの地に碑
  を建て、阿津賀志山合戦の七百年を記念し顕彰するとともに、戦没した鎌倉・奥州両軍将
  士への鎮魂の証しとした。時に明治18年6月であった。


『阿津賀志山故戦将士の碑』

1. 場 所 
   伊達郡国見町大木戸字経ヶ岡
    4号国道を国見から白石に向かい、
   右手に県北中学校を過ぎると、右手
   に大木戸小学校入り口の標識あるの
   で右折する。道路脇に車を置いて4
   号国道の歩道を白石方向に10m位行
   くと「厚樫山故戦将士碑(阿津賀志山
   故戦場碑)」の標識があるので、坂の
   小道を登るとすぐに石碑がある。





2. 碑の寸法

      台石(横2.2mx縦1mx高さ0.6m)
     の上に置かれ、高さ1.5mx横1.3mx
     厚さ0.6mの不整形な方柱である。



3. 碑 文
      上部に碑の篆額、その下に23行663
     字からなる碑文が彫られている。
      阿津賀志山合戦の経緯と陣没者の慰霊
     追悼を内容としたものである。
      この経ヶ岡は吾妻鏡によれば、福島盆
     地南口の石那坂の合戦で頼朝軍の常陸冠
     者為宗、同次郎為重兄弟が「庄司己下宗
     の者18人の首を獲て、阿津賀志山上の経
     ヶ岡に梟するなり」と記されている。
      国見町郷土史研究会の菊池俊雄氏によ
     れば「梟首刑は首を衆目にさらし、刑罰
     の威嚇的効果をねらったもので、山上に
     梟すことは意味がなく、むしろ人通りの
     多い街道沿いの経ヶ岡の地こそ適切であ
     ろう」と述べられている。

     
      また、「柴山景綱はこの他にも信夫郡の石那坂や文知摺の碑文を撰するなど、文化
     財の保護顕彰に尽力した。当時としては、奇特な行政官であったが、その人物につい
     てはあまり知られていないので紹介しておきたい」として『福島県史人物編』の柴山
     景綱の内容を紹介されている。
      文化財を保護するためには、まず文化財をよく理解することがたいせつであり、そ
     のためには説明板等の設置が必要であり、この「厚樫山故戦将士ノ碑」は、その先駆
     的な役割を果たしたものとして貴重なものであると称賛されている。

      参考文献
        1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
        2. 「国見町史」 (1)通史
        3. 「国見町の文化財」 国見町教育委員会
        4. 「阿津賀志山防塁関係論集」 国見町教育委員会・国見町郷土史研究会
        5. 「全訳吾妻鏡」 2 新人物往来社
        6. 「福島県の合戦 (福島・伊達・二本松・安達編)」 いき出版   





2015年10月26日月曜日

9. 河野広中と柴山景綱のすれ違いの交友


    福島自由党本部無名館の急襲
    河野広中を捕らえに行った警吏は、警部長(県警本部長)代理の柴山景綱だった。
   柴山はかねて三島県令から、もし河野が捕縛の命に従わなかった場合は、「これを
   斬り棄てよ」と言われていたので、無名館に着くと河野を威嚇する態度に出たが、
   河野は従容自若として武士的態度で応じ、少しもこれに反抗する行動に出なかった
   ため、止むを得ず令状を示しこれを縛した。この逮捕劇には後日物語がある。単に
   河野広中を逮捕するばかりでなく、その後 河野と柴山のすれ違い交友もあった。
   「磐州伝」の中にある柴山景綱の記述である。おそらくこれは明治23年以後のこと
   であろう。
   
    「因みに記す。河野広中は凶徒聚集の罪をもって禁獄7年の刑に処せられ、在監
   中読書を研究し徳義を練習すると聞く。はじめて同氏の三島県令における肉を食う
   も猶飽きたらざるの仇敵なりしが、出獄の後、人に語って今より追想するに、「当
   時予等の所為あるいは過激に渉りし事尠なからざれば、三島の怒れるも故なきにあ
   らざりき、官吏たるもの須からく彼が如く果断を要すべし」と言えり。

    通庸の死後、明治23年庚寅夏、芝区三田四国町に大火あり、三島家の付近ことご
   とく延焼してはなはだ危うし、時に主人 弥太郎(通庸長男)は米国に留学し、家族
   おおむね大磯に遊ぶ。女児の当時住まいする者また皆学校に出て一人も家に在る者
   なかりき。
    しかるに従来敵視せし河野広中第一に来りて訪うと、景綱これを聞きその義に感
   服す。他日、三島家を代表して河野氏の門に至り、近火来訪の厚意を謝す。
    当時、河野を訪い時機あらば往事の談話せんと、考えたりしをたまたま不在なり
   し、よって名刺を投じて帰る。事後、河野また麻布の某所に転じしとき、景綱の門
   を訪ひ来るとき、景綱外出中でまた面会するを得ずはなはだ遺憾とす。
    ゆえに重ねて訪問せんと考えいたりしが、そのうちに伊勢(御料局技師)へ赴任
   する等、彼これ未だ志を達せず」と。
    往時、血と血で争った自由党員の巨魁と、これを逮捕に向かった当時の柴山景綱
   のすれ違いの交友も両者の人間の一面を伝えて興味深いものがある。これは三島通
   庸の死後である。

                 (『土木県令・三島通庸』  丸山光太郎著より)  
   







2015年10月25日日曜日

10. 柴山景綱年譜

元 号(西  暦)  年 月 日  任 免 事 項
天 保(1835) 6.11.11  薩摩国鹿児郡上之国に生まれる。父は鹿児島藩士 柴山権助、母は   
                 叶子の長男。幼名を龍五郎という。王政維新の後、景綱と称す。
文 久(1861)   元年        藩主の生父 島津久光の先定供                   
   (1862) 2.         寺田屋事件に加担して捕らえられ、鹿児島で謹慎
明 治(1868)   元年      戊辰戦争には越後口に本営付監事として出征す。
   (1869) 2. 3       砲兵1隊長(知政所)
   (1871)     4. 8           小隊長(鹿児島県)
   (1872)   5. 1.18      軍陸省10等出仕、築造局分課築造係を命ぜられる  
   (1874)   7. 4. 4     東京府下等月給下賜 
   (1875) 8.  6.13   東京府大属囚獄係勤務
           8.12.27      警視庁8等出仕、西洋人銃猟取扱掛、屠牛場係、黴毒検査取締勤務
   (1877)  10. 5.23   警官辞職
            10. 7.31      山形県8等出仕
         10.11         県庁に出勤、第5学務課勤務を命ぜられる
   (1878)  11.11. 1   山形県東置賜郡長に任ぜられ2日任地に赴く                   
   (1880)  13.12. 3   山形県南置賜郡長兼任となる
   (1882)  15. 1.26   福島県1等属に転任、学務課長を命ぜられる
        15. 4.15              〃  赴任する(疾病のため) 
   (1883)  16. 2.  1   福島県伊達郡長に任ぜられる
         16.11. 7     福島県信夫郡長兼伊達郡長に任ぜられる
   (1884)  17.11.20  福島県信夫郡長専任となる
   (1886)  19.  4.19    警視庁に任用の内命あり(警視)
                      御料局主事(伊勢国度会御料地度会事務所)
          (1893)   26.  2.  6   免官
          (1911)   44.  9.  6 77歳 死去   



 

 




































































2015年10月24日土曜日

11. おわりに


    柴山景綱郡長の福島での業績は多々あるが、特に身近にあった件について調査
   したが、古い時代の事であり記録が無く、人々の記憶や言い伝えなども語れる人
   も少なくなりはっきりしない事が多かった。記録は当時の状況を再現すると言わ
   れている。また、記録は松川事件(昭和24年8月17日)における「諏訪メモ」の
   のように裁判で判決が逆転したほど重要な証拠となる。従って記録の発掘が必要
   だと痛切に感じた。

    西根上堰完成の翌年に、上堰の取入口の穴原橋の側に建立された古河善兵衛の
   頌徳碑は、佐藤新右衛門の死に不審を持ち、西根の農民は悲しみ、憤り二つに折
   って打ち捨てた。
    「大正15年に、福島中学校(現福島高等学校)の堀江繁太郎教諭と湯野村の岸
   波倍家氏の懸命の捜索によって、穴原の農家の土留の石垣に使用されていた、寛
   永の碑が発見され、西根神社の境内に移された」という情報を得た。この件につ
   いては従来は「明治になって篤志家が捜し回り、石垣の下積にされている碑を見
   つけ出し、それを移して建てた」と言われていた。地域の人々の史跡に対する関
   心のたまものと思い感銘した。

    柴山郡長の時代には、国家財政は乏しいため、公共施設の建設は基本的には受
   益者負担が原則であった。どこでも地元の有力者や農民などによる拠出金と自普
   請(労役)であった。半ば強制的な寄付で郡民や郡役所職員などから徴収された。
   金銭以外にも材料などの現物の提供も当然あったであろう。
    従って住民には不平不満も多々あったので、その矛先は三島県令や柴山郡長に
   向けられた。ただし、三島県令は、福島県に着くや或る者に「予は、政府より三
   つの内命を受けて赴任した。即ち、自由党の撲滅、帝政党の援助、通路の開削等
   である」と言っていた。従って快刀乱麻を断つの速度を以て施政の凡てを決行し、
   若しこれに反対する者あれば忽ちに高圧を加え、遂には自己の思うがままに行動
   した。
    また、三島県令は「知己を百年の後に俟つ」が好きだったという。自分の仕事
   の真価は、百年後の人がわかってくれるということだった。
    今日の福島地域の道路のうち、三島県令時代に開かれたものが幹線になってい
   ることを振り返るとき、その先見の明を思わざるを得ないが、その事の進め方の
   強引さはまさに官吏の専制ぶりであった。また、人によっては、寧ろ三島県令よ
   りも柴山郡長のほうが専制であると称せられた。しかし、「河野広中と柴山景綱
   のすれ違いの交友」などを読むと、共にお互いの立場を理解し合い、「昨日の敵
   は今日の友」と両者とも人格者と思わざるを得ない。柴山景綱は人の難儀を見て
   は、財を投じてけちではなかった。郷里鹿児島県に奨学金を送り、また在京中、
   和田倉門の火災に際して罹災者救済の義援金を差し出したり、かくれた篤行もあ
   ったと伝えられている。
    私の人生もそう長くないので、長年の夢だった柴山郡長の事歴をまとめること
   に専念した。ご一読いただければ幸いです。
                            (平成28年7月10日)