2015年10月29日木曜日

6. 信夫文知摺石発掘の事


    文知摺とは平安時代頃から珍重され、狩衣などに使われた織物である。草木の紫
   や藍色で絹に乱れ模様を付けたもので、なかでも信夫郡の文知摺は有名であった。
   文知摺の乱れ模様は、心の乱れにかけて和歌に詠まれるようになった。
    この地には河原左大臣 源融と虎女の伝説が残っている。陸奥国の按察使として赴
   任する途中、信夫に寄った源融は村長の娘 虎女と恋をし、しばらく逗留するが、や
   がて都に呼び戻されてしまう。残された虎女は、融が恋しく、文知摺石を麦草で磨
   いて鏡のようにし、融の面影を映し出したが、衰弱して亡くなったという伝説であ
   る。しかし、この伝説が若い恋人たちを刺激して、麦畑を荒らす結果を招いた。
   「古今和歌集」に源融の「みちのくの 忍もちずり 誰ゆえに みだれそめにし
   われならなくに」という歌が収められている。

    また、松尾芭蕉が古歌に詠まれた有名な、しのぶもじ摺りの石を見るために、信
   夫の里(福島市)に出かけた。宿場から遠く離れた山陰の小さな村里に、その石は
   半分以上も土に埋まっていた。村の子どもたちがやってきて、「昔、この石は山の
   上にあったのですが、通行人が畑の麦葉を取り荒らしては、この石の表面に摺りつ
   けて試したりするのを村人が嫌って、石を谷に突き落としたのですが石の面は下に
   なったのです」と教えてくれた。そんなこともあるのだろうかと思わず苦笑する。


    
    早苗とる 手もとや昔 しのぶずり
    田植する早乙女たちのすばやい手つきを見ていると、しのぶ摺をした手つきがし
   のばれてゆかしいの意。

   ◇ 文知摺石を保護した堀田正虎氏と信夫郡長 柴山景綱
    文知摺石(高さ3m、幅2m余)一名「鏡石」とも言われ、もと山上にあったが、
   里人がこれを下に突き落としたが、石の面は下になってしまった。それゆえ麦の葉
   で石を摺ることは途絶えてしまった。
    石に因む歌や伝説が今も鮮やかに残ったのは、伝説的価値があったにしても、こ
   の草深い山口にあって手入れもしなかったから、或は埋もれてしまったかも知れな
   い。貞亨3年(1686)から12年間福島の地に10万石の領主として堀田氏が来任し
   たことは、文知摺にとってはまことに幸いであった。弟 正虎は領内にある名勝旧跡
   などをよく保護した人で、信夫文知摺をはじめ大平寺の「稚児塚」、信夫山の「羽
   黒神社の鳥居」、「薬王寺の祈願所」などについても特に力を注いでいる。文知摺
   石の地中に埋没しているのを嘆き、石の全体を現そうとして工事を始めたが、3日
   後に担当役人が職を離れることになり、ついに目的を果たす事ができなかった。

   ◇ 信夫郡長 柴山景綱の文知摺石の発掘
    明治になって、政官正院の歴史課・地誌課の下部として、県の修史・地誌編纂事業
   がすすむと、これに呼応して史跡の保存顕彰運動が起こった。柴山が信夫郡長に着任
   すると、人が来て盛んに文知摺の事を説いた。そこで虚実を調べて見ようと、文知摺
   を訪れて池中に在る文知摺石を見た。石は無惨にも放置されていた。水面から出てい
   る高さ尺余(0.3m余)、縦五尺(1.7m)、横三尺(1m)の苔石であった。石の種類大小
   などは知ることは出来なかった。ただし、その状況は恰も野猪が水にうつぶせになっ
   ているのに似ていた。明治18年の春、信夫郡長 柴山景綱は村人に諭して言った。
   「現今各地に新たに公園を設け或いは旧跡を補修す。文知摺の名石を埋没したままに
   しておくのは勿体ない」として、5月5日より文知摺石の掘り起こしにかかった。戸長
   高橋繁久総監督として近村有志者も来り、掘り起こし作業を始めた。これを助ける者
   は千余人(瀬上戸長役場組合、岡部、岡島、本内、丸子、鎌田、瀬上、宮代、下飯坂、
   沖髙、矢野目の10か村)となった。景綱は毎日午後3時には退庁し文知摺の地に行き、
   土砂の運搬をして工事を助けた。ある時には休暇に際し郡吏、町村吏も終日出て助勢
   したこともあった。池の水を止め泥さらいをして、文知摺石の周辺を深さ10尺ばかり
   掘る。これによって再び700年前の文知摺石の全体を見る事ができた。高さ2.0m、長
   さ4.0m、幅3.2mの巨大な石であった。地表に現れている部分だけでも、重量70トン
   と推定された。『奥の細道』に「谷へつき落とせば石の面下さまに伏したり」とある
   のを掘り起こそうとする工事でもあったが、その面を出すことはできなかった。
    掘り出した石を細かに見ると、花崗岩の全面に石英脈がはさみ込まれて、その走行
   の複雑な美しさは見事なものであった。しのぶ草を束ねて、絹に石摺りすると、味わ
   いのある美しい模様ができた。景綱は「史伝口碑は私を欺かなかった」と述べて伝承
   の通り文知摺石はこれであると言い切った。
    四方に石を積み重ねて壁となし崩れるのを防いだ。明治18年8月20日を以て工事が
   完成した。
    また、これらと平行して石紋を縮緬羽二重に摺り「信夫文知摺石記」と共に霊山神
   社宮司 北畠通城を通じ、三陛下その他 三条実美、島津久光、島津忠義に献上した。
    また、文知摺石の地は、官道より離れていて桑園麦畑などで道が狭いので、道路の
   拡幅改修工事に着手して、同年10月21日竣工式を挙げた。 


   信夫文知摺石の発掘余録

   1. 柴山郡長顕彰碑
      「明治18年(1885)信夫郡長 柴山景綱が文知摺石を発掘し、現在の状態にし
     たことを顕彰し、明治37年3月に建立した。撰文は、旧福島藩督兼侍講・ 高橋
     忍南、書は安洞院14世瓦獄玄彰和尚による」
                                 信夫文知摺保勝会



   2. 原 太一の建言書
      福島の一市民 原 太一(福島町役場土木主任)が山縣内務大臣に提出した「県庁
     移転反対建言書」がある。激動する政局の中で、郡の町村民がどのような生活をし、
     どのよう負担を強いられたかを簡潔に書きあげている。とくに文知摺石について
     は「是は客歳(5月より6月に至)農蚕繁忙の季節にて、最寄り村々は大難渋仕り
     候(人夫8,000人余)」と述べている。(福島市史 4 P.247)
 




      参考文献
       1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
       2. 「福島市史」 4 近代  (福島市教育委員会)
       3. 「福島市の文化財調査報告書 第3集」(福島市教育委員会)
       4. 「奥の細道紀行300年記念『しのぶもぢずり』をめぐって」関係資料
          (福島市教育委員会)
       5. 「ふくしま散歩」 小林金次郎著
       6. 「おくのほそ道」 (角川ソフィア文庫)    



  

  
    

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