2015年11月1日日曜日

3. 信夫郡福島町給水の事


    戊辰の役前の福島は、家中(藩士)と町家(町)と農村(福島町)を合わせても
   600余戸の小都市であった。福島の町の用水は、江戸時代から福島用水の水を引
   いた掘が町通りの中央を流れていて、人も馬もこの水で用を足し、飲料水は掘り抜
   き井戸だけに頼ってきた。泉村の柳清水の水を福島に導水する案は、早くから計画
   調査されたが、多額の工費が予想されて実施されずにきた。明治9年、中野新道の
   開通にともない、福島〜泉村間の交通が便利となった。明治11年、澤木三郎兵衛
   等は本町、中町、大町の有志と共に拠出金を以て旧清水村地内の柳清水の自然水を
   石積みの貯水池をつくり、県令 山吉盛典に具申し、笹木野原の県有林から木材の
   無償払下げが許可されたので工事に着手した。

                   現在の柳清水(清水小学校校庭南西部)   

     延長2,400間(4,364m)を松の箱樋を使用して引水し、かけ樋をもって個々
   の専用井(有料)、または共有井に導水したものである。この工事に6,000人の
   労役と2,000余円を要したという。旧福ビル裏角に大溜桝を設け暗筧を以て各戸
   に分水した。まさに福島簡易水道の起りであった。この水道の水は以後5年間、
   中町、本町、大町の住民にのみ配水された。
 
    明治14年4月25日夕方、柳町の銭湯「みどり湯」付近から出火、折からの
   南風にあおられて、街道筋を北から北東に火が走り、今の新浜公園辺りまで延焼
   し、町の大半を焼きつくした。世にいう「甚平衛火事」である。県庁のおひざ元
   の大火の教訓として、直ちに行われたのが、道路の拡張整備だった。県からの指
   示もあって福島町の有力者だった人々が協議して早くも5月には着工し、町民の
   協力を得て、今日見る福島市街の基礎となる道路などの骨組みができたといわれ
   ている。

    明治16年11月に柴山景綱信夫郡長に着任後、飲料用の水源を四方探し求め
   た。ある日、当地を10数町離れた地に水源があるのを知らせた者があった。景
   綱はこれを実地検分すると、報告のとおり泉よりきれいな水がこんこんと湧き出
   ていた。この水を福島に注げば住民は大変便利であると考えて、部下の技手に測
   量を命じた。技手は測量の結果、「泉より福島の地まで水を引く事は、そんなに
   困難な工事ではない」と復命した。そこで景綱は市民に引水計画を諮ったが、市
   民はその工事の成功を疑った。景綱は自信を持って1,500円を銀行より借りて即
   時に起工した。そして町の一部に給水した。その後、議会を開き議論したが、大
   方の人は一部の成功を見て疑義が氷解し、全会一致を以て賛成し、全部給水する
   ことになった。もし、景綱の考えに対して議会の賛成がなければ、個人で借金を
   返済する決心であった。他日「後年、福島地方に悪疫流行の際、市民の多くが被
   災を免れたのは、この飲水用工事の成功があったおかげだ」と聞いた。(「柴山
   景綱事歴」史談会速記録)

    明治17年に入って、三島県令は柴山郡長に町通りの中央を流れている江戸時
   代以来の用水堀を埋めるよう指示した。福島町会はこれを可決した。各町会は3
   名の世話係をあげ、1,285間(約2,213m)の堀を埋め修繕をした。ここにおいて
   藩政時代からの城下町、宿場町としての町通りの景観は全くその面影をなくした。
   この年、柴山郡長はさらに町民に諮って、延2,540間余(幅5間以下1間半以上)
   の街路を開削並びに修理をし、町の区画の基礎整理がなされた。明治18年には
   柴山郡長の尽力によって、水道は町有となり、箱樋を松のくりぬき木管に改めて
   拡張工事が行われた。
    明治19年4月、福島の一町民 原 太一(福島町役場土木主任)が、県庁移転
   反対建言書を山縣内務大臣に提出したが、その中に「福島町の市中飲水用工事」
   17,000円について、「当該工事は郡長の専断にて起こし、工事半ばで初めて町議
   会に付した」と三島県令、柴山郡長の非を鳴らしたとあるが、柴山郡長の深慮遠
   謀の心の内がわからなかったとしか思われない。


 「福島町給水の事」余録

    柴山景綱郡長の着任早々の「市中飲水用工事」は、原 太一(福島町役場土木
   主任)の指摘しているのと符号する。ただし、水源地がどこかはっきりしない。
   南沢又文書の「明治16年12月 福島町の水道路につき定約」を見ると、
   『先年 南沢又村字柳清水より引水に相成候所、当今に至り水不充分を来し候に付、
   県土木課への願いの上なほまた同村字玉抜清水を以て柳清水増水引入候に付いては、
   ……(以下省略)
      明治16年12月
                        福島町水道掛総代 半沢 喜造
        南沢又村
          御総代  斎藤 長吉 殿 』

    とあり、時期は同じ頃であるので、水源地は玉抜清水と思われる。
     この玉抜清水は古老によれば、松川の伏流水であって水量も多く絶えること
    もなかったと言われている。昭和28年の第三次水源拡張事業によって、清水
    水源ポンプ所が設置され、最近まで使用されていた。平成18年度に国が建設
    した「摺上川ダム」に水源を求めることになった。水源確保の問題は福島市に
    とどまらず、県北地方各町の共通の課題であったため、摺上川のおいしい水は
    1市11町に安定供給される事になり、清水水源ポンプ所は閉鎖された。

 
         
            参考文献
            1. 「柴山景綱事歴」 史談会速記録
            2. 「福島市史」4  福島市教育委員会
            3. 「福島市史」10   近代資料1 福島市教育委員会
            4. 「福島市誌」   福島市教育委員会
            5. 「福島市水道六十年史」
            6. 「南沢又文書」  福島市史資料叢書第70輯 
            7. 「いずみの歩み泉の行政百年誌」 泉地区町連合会
            8. 「南沢又の歴史」 鈴木 政雄   
     
  
 




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