2015年11月2日月曜日

2. 伊達郡役所新築の事

    伊達郡は面積が広く、元3区(保原、桑折、川俣)に分割し、その区会所を保原、
   桑折、川俣に設置されていた。明治12年(1879)郡区改正により3区会所が
   合併し、保原は3区の中間にあるとして伊達郡役所は保原に設けられた。もともと
   白河から棚倉へ領地を移した阿部氏の伊達領支配のために置かれた代官陣屋を転用
   したものだった。それほど大きな建物ではないし、洋風が流行していた当時にあっ
   ては具合の良いものではなった。保原は川東(東根郷)にあったので、阿武隈川西
   岸(西根郷)の町村から繰り返し伊達郡を分割して、もう一つの郡をつくることが
   請願されていた。この動きの中心に桑折があった。

    明治16年2月1日、柴山景綱が伊達郡長の命を拝するや、桑折はやや西部に偏
   在するが、国道線路に沿い郡内第一の都会であり、他日鉄道敷設の暁には、停車場
   も置くべき地と予想し、郡民の利便性があることを認め、三島県令に具申し、県令
   もこれを受け入れた。郡役所の設置位置は国の権限だったので、福島県は内務卿に
   伺書を提出し、その手続きを履行した。
    明治16年4月12日、郡役所を桑折町に移すとの令があり、これを郡内に告示
   し、その15日を以て桑折に移転し、法円寺を仮庁舎として事務を開始した。
    郡役所が保原から桑折に移ったのは、郡役所を改築するとき地元住民から巨額の
   寄付金を集めなければならなかったが、保原村では学校を建設したばかりで思うに
   まかせなかった。移転地として名乗りを挙げたのが桑折村であり、再建資金の見通
   しも立ちそうだったので、桑折移転がにわかに現実のものとなった。
  


    柴山自身は陸軍省で兵舎の建築を担当したこともあり、山形県では師範学校の建
   築を担当したこともあるので、建築の全くの素人ではなかった。明治16年5月に
   建築費総額2万5千円をもって庁舎新築工事がはじまった。桑折村からの寄付金お
   よそ2万円は現在の物価に試算すると一億数千万円に相当する巨額であった。同月
   29日より土木工事を着工する。先ず民家を移し、敷地に盛土して突固め、建築の
   地盤を鞏固にして、更に石を周囲に敷き詰め、その崩落を防いだ。

    景綱は着工の日より毎朝第一の鶏声に出て、職工を鼓舞激励し、時には土塊や石
   ころを運搬し人夫と労を分った。建物は地元の大工棟梁 山内幸乃之助・銀作の両氏
   によって建てられた。10月には総二階西洋建、正面に二階建の玄関ポーチを付設し
   屋上に塔屋を高く構えて、当時としては珍しい壮麗な明治様式庁舎が竣工した。これ
   らの建築様式は、三島県令時代の山形県下の明治擬洋風建築と類似しており、三島県
   令およびその側近の柴山郡長らが設計に参画したと考えられている。

    開庁式は10月8日に行われた。式の情景は桑折町史によれば、『福島新聞(明
   治16年10月10日)に掲載された概要は次のようなものであったと記されてい
   る。当日は朝から天気が良くなくて、風雨が激しくなってしまった。正午には県令
   が馬車で到着し、各郡長や県課長に幹部警察官、さらに病院長や学校長も参加した。
   また郡内では郡長や郡役所職員はもとより、県会議員や各連合村戸長に有志者や豪
   農商およそ100余人が列席した。
    式は最初に柴山郡長の祝辞に戸長 氏家喜四郎の祝辞、そして三島県令が「斯る目
   出度開庁式が此の大雨に遭ひたるは一応は不幸な事の様なれども、翻て之を考へれ
   ば此の上もなく目出度日和にて、此の豪雨の水を以てこれまでに垢染みたるところ
   をひと洗いし尽くして、更始一新の美明なる伊達郡を作り出すと思えば悲しみもか
   えって喜びとなるに非ずや」との答辞を述べた。
    当時は桑折村の消防組や警察官が周辺の雑踏を整理し、近郷近村の多くの人々が
   集まった。式が終わると郡役所2階では来場者、階下には議員や戸長等々240〜
   250名が参会して祝宴が開かれた。前庭では素人相撲や撃剣が行われ、菊畑の山
   車を引く女児や盆踊りも披露された。花火が用意されたが大雨のため数本だけで翌
   日に持ち越されたようである。翌日は用意された余興が演じられ、花火もあげられ
   て近在の大勢が郡役所の見学に訪れた。
     柴山郡長は郡役所建築の慰労として、県庁より有栖川宮御筆木盃三組と糸織一疋
   を拝受した。

    郡役所は大正15年(1926)7月1日、郡役所が廃止になるまでの約43年間、
   郡行政の役割を果たしてきた。その後、伊達郡各種団体事務所に利用され、更に県
   の出先機関としての地方事務所が設置されてきたが、昭和44年3月、県行政の改
   革により廃止、昭和49年5月7日に県重要文化財に指定となり、同年7月2日、
   桑折町に移管された。昭和52年6月27日、洋風官衛建築の早期の優品として、
   国重要文化財に指定され、同時に文化庁の指導と援助により半解体保存修理工事を
   行った。総事業費は1億800万円、同年12月1日に着工し、19ヶ月を経て昭
   和54年6月30日滞りなく完成した。明治16年建築当初その威容を示していた
   塔屋は、「烈風の際、自然動揺し永久保存に便ならざるのみならず、往々破損の所
   ありて降雨の節雨漏りし、之を修理するも反って費用を要する…」(県の記録)と
   の理由から、明治20年、解体撤去されていたが、今回の工事によって塔屋が完全
   復元された。

    伊達郡役所の桑折移転について、保原町史①通史によれば、「郡制が実施され、
   郡には郡役所が置かれたが、伊達郡役所は保原に置かれることになった。保原郡役
   所時代で明治12年(1879)に設置された。
    ところが、伊達郡役所の設置場所について、早くも翌13年から桑折方部を中心
   に桑折への移転運動が起こり、ついに同16年(1883)に郡役所の桑折移転が実
   現してしまった。このことが、なぜこのように簡単に実現してしまったのかについ
   ては疑問が残るが、それよりも伊達郡全体を見渡した場合、郡の中央は保原なので
   あるから、それをあえて桑折に移したということは、この後長い郡制時代からその
   後の時期までを通じて、伊達郡行政の上からみて大きな損失であったということが
   できる。多数の郡民の意思を無視して行政を進めた県の権力主義的な暴挙の姿の一
   端が現れていたとみる外はない」と述べられている。

     
            重要文化財 旧伊達郡役所

        ◯ 構 造 形 式      木造、二階建、桟瓦葺
                 中央部一部三階塔屋(擬洋風建築)
        ◯ 建 築 面 積  375.80 ㎡(延面積602.46 ㎡)
        ◯ 敷 地 面 積  3,826.48 ㎡
        ◯ 建築年月日  明治16年10月
        ◯ 指定年月日  昭和52年6月27日 国指定



       参考文献
         1. 「柴山景綱事歴」史談会速記録 
         2. 「桑折町史」2、7
         3. 「保原町史」1 通史
         4. 「ふくしまの西洋造
            ー明治洋風建築の通観ー(ふくしま文庫)草野和夫著
         5.   旧伊達郡役所しおり






0 件のコメント:

コメントを投稿